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フィリップ・ガレル:恋人たちの失われた革命
投稿日 2007年1月1日
最後に更新されたのは 2023年5月25日
フィリップ・ガレル:恋人たちの失われた革命
 
フランスにおける五月革命(1968年)は学生運動(発端は3月22日のナンテールの事件)が労働者層を取り込んで全土ストライキに突入した。フィリップ・ガレルは自らの作品『恋人たちの失われた革命』において、ある人にとっては事件の一つであり、別の人にとっては革命であったその事象について自身の味方を描いている。
 
© Franc-Parler

フラン・パルレ:この映画は1968年の五月革命から始まりますね。これらはあなたの思い出なのですか?
フィリップ・ガレル:五月革命の時、私は二十歳だった、ということです。私はその世代に属するから、映画を撮りたかったのです。何故ならロマン・グピルの『30歳で死ぬこと』(日本未公開)、これは68年当時を生きた或る人間についての、ちょうど30歳で亡くなった、確か彼はレカナティという名前でしたが、ドキュメンタリー映画で、実際とても良く出来ています。当時の映画以外には…当時の映画は2本ありました。一本はウィリアム・クラインの『偉大なる夕べと夜明け』、もう一本は『五月革命』という殆ど知られていない監督の作品で、それらの中に当時の実録映像が挿入されています…私が資料を探していた時、68年についての資料は、映像、音声ともに、全部で50cm×80cmの段ボール一箱に収まっているということに気がつきました。つまり、記録され、保存されているものは殆ど何も無い、ということです。それに政権においては、政治家たちはそれが存在したことを殆ど認めないような印象を私は持っていたので…一方では、彼らは五月革命を今日の全ての悪だと告発し、他方では彼らはそれが重要なことだったと認めていませんでした。それならば、と私は思いました。68年を構成した分子として、私は映画監督だから、などの理由で、私がそれについて再現する映画を作るべきだと。それに私はこのきっかけの下で、つまり68年オンリーで作品を作れなかったので、3時間の作品中、68年については45分、という作品を撮りました。まるで私が68年についての中編映画を撮り、古典的なラブストーリーの作品全体の導入部にしたかのようです。そしてそれは、私にとってとても戦略的でした。
 
フラン・パルレ:あなたは御子息が既に出演したベルトルッチ監督の『ドリーマーズ』の装飾要素を再び取り入れましたね。それらのお助け方法を用いて撮影する事は一つの選択肢ですか?
フィリップ・ガレル:そう、私はその手法が好きです。それはふつうの選択です。何故なら私は大きな資本に繋がるより自主的である方が好きで、大抵の映画監督よりももっとずっと自由な作品を作ります。とにかく私の国においては。だから、それは自由に作品を撮れるようにするための選択なのです。
 
Les amants réguliers

フラン・パルレ:あなたは(スポンサーに)影響されることが怖かったのでしょうね?
フィリップ・ガレル:いや、そうじゃなくて、それよりもっと複雑です。私はこの映画を作りたくなってからその困難に直面しました。最終的には、恋愛作品と68年についての作品を混ぜるという戦略的アプローチをしたのですが、その作品を製作するには本当にとてもとても困難でした。つまり右派の経営者達や民間製作会社、補助金を出す右派の決定機関が皆、この映画に即座に反対したのです。だから私はこれを製作するのにとても苦労しました。内部に協力者を何人か見つける必要がありました。見つけることができましたが、通常の私の作品よりずっとこの作品を製作するのに苦労が多かったです。彼らはこれが68年についてだからだと決して言ってはいなかったのですが、右派はある意味で、自らの首を絞めることはしないです。彼らは毛頭それを明るみに出すつもりはないのです。加えて現在フランスに12年も君臨している政権が、68年(五月革命)がどういうものだったか若い人たちが知らないということに拍車を掛けています…実際この運動全てが私たちの社会のあらゆる無秩序、暴力などの根源のように、それらがこの時代の自由放任から始まったかのように言って罪をかぶせようとしています。そしてこういったことは全て、彼ら右派が、直接の証人であった、直接活動していた誰かがこの歴史的事実はどんな性質のものであったかを語り始めることを望まなかったからなのです。
 
フラン・パルレ:あなたはどんな活動家でしたか?
フィリップ・ガレル:当時は私の世代です。68年に二十歳前後で、戦後生まれで。私自身、したことはというと…67年に初めての長編映画『記憶すべきマリー』を撮りました。これは本当に、一貫して夢幻的なスタイルで、率直に暴動を喚起する作品です。これは二十歳の若者達が彼らの道徳を説く社会の不条理さに対して実際に立ち上がり、人生においてのより公平さとより自由さを取り戻すための内乱を起こすのです。この作品は世に出るべきでしたし、これが私の最初の長編映画でした。これが革命の直前の68年4月に、イエール映画祭でヤングシネマ賞を受賞して、世に出るはずでした。そして68年5月、反乱の動きがあった時、私は覚えています、私はこの運動が起きた時にはとても嬉しかったし、フランスを殆どストライキに陥らせたこの運動のせいで私の映画が世に出ないことはとてもとても二次的なことだ、と納得しました…一夜にして、というわけではありませんでしたが、一週間経つと全土ストライキ状態になりました。私が参加した毎晩行われていたあらゆる路上の戦いについても同様です。私はとても幸せでした。私は私の作品が世に出るよりもそのことが起こることの方がもっとずっと重要だと感じていました。私達の生活様式をかえることの方が、私がこのフランス社会の内部で映画監督として個人的な小さい成功を収めることよりずっと大事だという印象を持っていました。だから私はあるグループに属し、ダニエル・コーン=ベンディが煽動した3月22日の運動に協力したのです。私と同世代の芸術家の友人と、そのうち誰かは作家になりましたが、『記憶すべきマリー』の女優のひとりであったズズたちと、夜を過ごす以外に、日中は3月22日の運動に係わり、セルジュ・バールとパトリック・ドヴァルという二人の映画監督と共にニュース映画を撮りました。私達はある集団を作り、『アクチュア1』という最初の号を35mmモノクロで撮りました。そしてそれはパテ社のニュース映画に対抗するものでした。なぜなら当時はパテ社のニュース映画があり、それは政権側のニュースでモノクロ3、4分のものでした。だから私はジャン=リュック・ゴダ−ル監督に会いに行き、彼が当時のお金で5千フラン貸してくれたので、私達はカメラを調達してこの第一号を撮ったのです。
 
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フラン・パルレ:あなたのご家族はこの作品において存在感がありますね。
フィリップ・ガレル:そうです。私の父が俳優で、息子も俳優になりました。息子の母親も女優なので、私はこれをとても役立てました…68年に辿り着くと、それが実際にある家族に行き着くのです。だから私はこれが何らかのドキュメンタリーの形で残るように私自身の家族を使ったのです。一般的に言っても68年が終結した後で、それは家族に回帰すると言えるでしょう。なぜなら歴史に裏切られて失った希望をそこで回帰すると言えるからです。実際68年に(権力に)負けているのですから、それを正直に語るべきです。
 
2007年1月
インタヴュ−:エリック・プリュウ
翻訳:粟野みゆき
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