フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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ウーク・チョング、『韓国三部作』著者
投稿日 2013年10月16日
最後に更新されたのは 2023年5月25日
ウーク・チョング、三つの書体で綴る作家
 
日本に生まれ、韓国人の両親を持つ、ケベックの作家ウーク・チョングは、10月10日から19日の日本滞在中、幾つかの日本の大学や日本ケベック学会(AJEQ)の年次大会に於いて、一連の講演会を行った。彼は、フランス語で書かれた6つの小説の著者であり、小説「キムチ」で、2002年に、カナダ・日本文学賞を受賞している。2012年に刊行した最新作「韓国三部作」の中では、ウーク・チョングは、彼が人生で関わった三つの場所、三つの時代、即ち日本・韓国・カナダについての自身の見解を述べている。それらの場所は、アイデンティティや帰属関係についての問題提起をする場でもあった。
 

フラン・パルレ:貴方はケベックの作家で、ご出身は・・・・
ウーク・チョング:出身、えーと、出身は、韓国です。父は韓国のソウル生まれ、母は日本生まれですが、彼女の両親は韓国出身ですから。彼等は日本に住み着いた移民であり、日本で家族の枝を広げたのです。ですから、私は韓国と日本の二つの文化的遺産を受け継いでいるのです。
 
フラン・パルレ:ケベックにはどのようにして渡られたのですか?
ウーク・チョング:1965年に、我々は船で出発しました。その時は、兄弟はまだ二人の兄と私だけでした。 モントリオールに着き、そこが私の第二の故郷になるのですが、そこで数年後に、二人の妹達が生まれます。私たちは子供5人の家族で、モントリオールでどこにでも見られるようなモントリオール人です。
 

フラン・パルレ:ケベック州は移民の国ですね。移民の社会同化は、当時と今と同じなのでしょうか?
ウーク・チョング:大いに違っています。1965年のモントリオールは今日のそれとはとても違っています。第一に、この二つの時代の間に、大きな政治的変革が行われました。1976年にケベック党という政党が政権を握り、単一言語、フランス語圏ケベックの推奨に努めました。翌年1977年には101法を採択し、移民の子供たちはフランスの学校へ通うように強制しました。結果、ケベックの新世代、ネオ・ケベック世代が形成されることになりました。今日、モントリオールの通りを散歩すると、あらゆる民族・種族の若者に遭遇します。彼らは、同じケベック語を話し、もはやケベック人同士には種族的障壁がないのを感じます。1960年代、私の家族がモントリオールに船で到着したころは、私は、はっきりとそれと分かる少数派の民族に属し、そのことを色々囃し立てられたものです。私は人種差別という言葉を恐れずに使います。それは私が13歳の時に体験したことなのですから。私はクラスのいじめの対象でした。その体験が私を作家として育み、私の感受性を培い、歪めもしたのです。そんなことがあったために、近年、モントリオールにいると、様子が大分変ったこと、私自身、以前よりももっとモントリオール人らしくなったと実感致します。
 
フラン・パルレ:貴方は他の人と同じケベック人であれば、何故「キムチ」のような本の表題で、ルート探しをするのですか?
ウーク・チョング:確かに私は五つの創作を出版しました。その物語の大部分は、日本か韓国での話です。今まで私はケベックを舞台にした小説を書いたことはありません。だからといって、私がケベックの影響を受けていないということではありません。むしろその逆で、無意識のうち、そうとは知らずに、私の拠り所とするものは全てケベック的です。私はケベックのテレビを見過ぎるほど見、ケベック音楽を聞き過ぎるほど聞き、ケベック文学も沢山読みましたから。だから必然的に、そういったことは、私の文体、思考方法、精神概念などに影響を及ぼしています。外観上はケベックではないかもしれませんが、感覚的には、私はまったく西洋的と言えると思います。
 

フラン・パルレ:貴方の「舞踏物語」の中に、ユルスナール、ローデンバッハの引用があります。ベルギーの影響も入っていて、ケベックだけではありませんね。
ウーク・チョング:ええ、もちろんです。長い間、私はフランス崇拝、フランス文学崇拝でした。フランスは私にとって文化のメッカでした。1993年には、パリに勉学にすら行きました。その後に初めて私は、フランスはもはや私のいるべき場所ではないと気づいたのです。それでケベックに戻り、今度はアジア行きを画策しました。そしてアジアの中に、一致点、何と言ったらいいか、それまで私が心の中で感じていたものと、はるかに私の感覚に合致したアジアの環境との間に一致点をみたのです。でも、何故アジアの文化に同化でき、あのマジックがフランスでは続かなかったのかを説明することは私には難しいのです。私の文化的知識は非常に交雑しているので、フランスでも日本でも韓国でも、私はぴったりとした自分の居場所がないからだろうと思います。私は四方八方に羽根を広げていて、私の人生行路はそんな風に少々流浪的に見えるのです。
 
フラン・パルレ:例えば、貴方が今回日本にいらっしゃって、このご旅行をどう感じていらっしゃいますか? 貴方にとって、これは里帰りですか?
ウーク・チョング:長い間、私は自分が韓国人、日本人と考えていましたが、それは空虚なアイデンティティでした。それらのアイデンティティの背後には中身がなかったのです。ですから、やっかいなことになりました。私は日本語も韓国語もしゃべれませんでした。30歳近くになった時、私は日本に戻る機会を得、その時本当に、私がそれまで感じていた欠落感を埋めようと努力しました。実にその時初めて、日本人・韓国人といったレッテルに、ある程度の中身を注ぐことが出来たように思います。それには少々時間がかかりましたが、結局そこで初めて、日本や韓国のことをかなりよく知ることが出来たと言えます。ある種の体験を経たことにより、それらの文化の中で繰り広げられる登場人物や物語を紡ぎだすことが出来るようになりました。私の処女作「東方彷徨譚」を書いた時はそうではありませんでした。処女作の時は、純粋に創造的で幻想的なわけのわからない言葉を創り出していました。今日、私の物語は、日本や韓国での実際の体験に由来しています。そして今の私は、ケベックが私にもたらしたものを、将来、小説か物語の形で、どのように表現しようかと考えています。というのも、そこには、まだ創作的手法で表現するに至っていない、私の中の何かケベック的アイデンティティがあるからです。
 
フラン・パルレ:「舞踏物語」に話を戻します。 主人公の孤独、これは貴方にとって根源的な問題ですか?
ウーク・チョング:そうです。というのは、思春期の頃、私は若いケベック人達のクラスという社会環境の中に抛り込まれ、逃避すべき韓国や日本のコミュニティーを持たなかったのです。私は孤軍奮闘し、情緒不安定な年月が続きました。でも同時に、そのことが私の想像力を養ってくれ、こんな風に、偶然的に作家になったのだと思います。孤独というものは、芸術家、作家といった人たちの作品にみられるものですから。いわば孤独は私の唯一の家族です。書物を通して私は芸術家、作家達を見つけました。そこから私の文学に対する情熱が芽生えたのです。というのも、思春期に、私はいかなる社会的グループにも入り込むことが出来なかったからです。
 

フラン・パルレ:「韓国三部作」について語っていただけますか。
ウーク・チョング:「韓国三部作」、それは言うなれば、日本、韓国での私のあらゆる体験とケベックが私にくれた遺産の総括です。結局のところ、ここには私の交雑したアイデンティティがかなり垣間見られます。もしこの本を書かなければ、私の作家としての取り組みが何か不完全燃焼で終わっていたでしょう。でもこの本のなかで、今まで言いたかったことの本質を提示したという感はあります。ですから、一休みすることができるのです。私は職業的な物書きになる積りはありませんでした。朝の9時に仕事机に向かいませんし、午後の5時には仕事を終えるでしょう。慣例的に書き物をするのではなく、むしろその反対で、過去の経験から脱出する必要があったのです。「韓国三部作」を書いてそこから抜け出せました。ですから、今後、たとえ本を出さなくなったとしても、正しかったのです。今まで言わなければならなかったことを、私は言ったという感があるからです。
 
フラン・パルレ:では、その作品は終着点のようなものですか?
ウーク・チョング:文学創造には矛盾したところがあります。ある作家がいまして、彼はとても人気があって、名前はダニー・ラフェリエールと言います。私とは個人的な知り合いではなく、数度出会っただけです。その彼と私の間に、ニコラ・リバンという共通の友人がいまして、ニコラ・リバンは、出版社Le serpent à plumesで、ダニー・ラフェリエールの宣伝マンのようなことをしていました。彼曰く、ダニー・ラフェリエールは、作家活動の開始に当たって、書くべき作品のリストを自分に課しましたが、彼が本格的な著作を書き始めたのは、最初に計画したその作品リストを全て書き終えた後からだったそうです。全てを語ったと彼が感じた段階に到達したからなのです。創作活動はどう展開するのか判りません。終わったと思ったら、新しいサイクルが始まり、そんな風にして続いていくのでしょう。
 

フラン・パルレ:貴方のお考えでは、とりわけ「韓国三部作」は、日本語、韓国語の翻訳作品として、読者に受け入れられると思われますか?
ウーク・チョング:「韓国三部作」は三巻で構成されていて、それぞれ独立した本として読むことができます。「キムチ」は第二巻で、2001年にフランス語で出版され、それから日本語と韓国語に翻訳されました。期待した程の反響は得られませんでした。第一、ベストセラーにはならず、大きなキャンペーンをはって売りに出された本ではありませんから。拙著に対する日本や韓国の読者の反響を推測するのは、私にとって難しいです。けれども、開催してくださるセミナーを通して、「キムチ」に関する講演会を開いてくださる日本や韓国の大学関係者がいらっしゃることに気づきました。「韓国三部作」はごく最近の本で、2012年に出版されました。ですから、私にしてみれば、たとえ日本、韓国といった国々で商業的に成功しなかったとしても、ある種の読者たちの関心をひいたと言えるのではないでしょうか。だから、私の作品のなかには、彼らに語りかけ、文化的境界を乗り越える何かがあるのだと思います。日本や韓国の読者に対しては、私が純粋に日本人でもなければ韓国人でもないからだと、長年思っていましたが、色々な大学関係者が関心を示して下さり、講演会を開いて、私の著作を採りあげて下さっているのをみると、言葉を凌駕する一滴の価値がそこにはあるのだと思います。
 
東京、2013年10月16日
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上 八汐
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