フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

Rédaction du journal:
Rédacteur en chef: Éric Priou
Rédaction: Karen, Mika Tanaka

La francophonie au Japon
Franc-Parlerフランス語圏情報ウェブマガジン フラン・パルレ
〒169−0075新宿区高田馬場1−31−8−428
1-31-8-428 Takadanobaba, Shinjuku-ku, 169-0075 Tokyo

Tel: 03-5272-3440
E-mail:contact@franc-parler.jp
http://franc-parler.jp

マリ=ポール・ベル:シンガーソングライター
投稿日 2004年9月1日
最後に更新されたのは 2023年5月23日
マリ=ポール・ベル:パリジェンヌのフランセーズ
 
マリ=ポール・ベルは、ピアノを弾きながら歌う。2004年7月の第一回ジャパン・ツアーはバルバラの曲を選んだ。彼女自身のキャリアは長く、レパートリーも多い。今回のツアーは、さらに充実しつつある自作のコンサートの予告に過ぎないのだろうか。
 

フラン・パルレ:あなたをあまり知らない日本のファンに・・・
マリ=ポール・ベル:全然知らないと言っても構わないですよ(笑う)。平気ですから。
 
フラン・パルレ:あなたの代表的なシャンソンの『ラ・パリジェンヌ』について語ってください。
マリ=ポール・ベル:はい。これはフランスにおける私の身分証明書のようなものです。私を知らない聴衆のために、これはユーモラスな、とても愉快な歌で、ダイナミックで高揚感がある、オッフェンバッハの音楽のような曲だと言っておきましょう。歌詞はちょっとスノッブなパリジェンヌの気質をからかったものです。私は田舎者だったので、はじめてパリに来たときには驚かされました。だから、このシャンソンは大成功でした。田舎の人たちは私がパリの人をからかうのを見て喜んだし、パリジャンたちも自分のことではないと思って大笑いしました。
 
フラン・パルレ:パリと地方の断絶はまだ存在すると思いますか。
マリ=ポール・ベル:はい。もちろん。私はよく地方を回るのでそう思います。30年たってもまだ続けていられるのは、パリだけではなく、地方やフランス語圏の国々を回っているからです。また成功しているのは地方の聴衆のおかげです。この断絶はまだ習慣や気質、伝統の中に生きています。パリの聴衆は地方の聴衆に比べて冷めています。地方の聴衆はずっと感情を表に出します。日常生活においてもショーが終ってから夜の11時にレストランを見つけようとしても地方では不可能です。パリでは問題ありません。こうしたことが重なって、違いが目に付くことになります。
 
フラン・パルレ:あなた自身、田舎者だと思いますか、それともパリジェンヌだと思いますか?
マリ=ポール・ベル:今は断然パリジェンヌです。地方では生活できないと思います。友人や家族がパリに多いし、パリの生活に慣れ切っているからです。なかでも素晴らしいのはパリの匿名性と自由です。私は出不精なのですが、どのレストランだろうがどの見世物だろうが、行きたいときに行けると思えるのは大きな自由です。地方は大きな村に似てみな顔見知りなので、何かをすればみんなに知れ渡ってしまいます。それはあまり嬉しいことではありません。
 

フラン・パルレ:フランスではどんな会場を回っているのですか。
マリ=ポール・ベル:ありとあらゆるホールです。200席から300席の小さなものもあれば、カジノ・ド・パリのような大ホールもあります。オランピアでもやりました。200席の小さな劇場でもやることができます。聴衆と、とても親密で感性豊かな関係を持つことができます。大ホールで大きなブラックホールに向かうのと違って、聴衆の息遣いと視線を感じます。フランスでは、私の目的と希望は、あらゆる場所で、あらゆる市町村で、あらゆる種類の聴衆のために歌うことです。だからすべての市町村を回るのですが、その予算はまちまちです。私のショーはほとんど費用がかかりません。一人でピアノを弾くほかには技術スタッフが2人。これは強みです。どこでも歌いに行くので、誰でも私に会えます。それが好きなのです。もちろん宣伝活動もしなければなりません。テレビやCDのリリース、ラジオなどをやります。でもマーケティングに関心はありません。関心のあるのは聴衆とのダイレクトなコミュニケーションと、ステージでの交流です。それがミュージシャンの本来の姿です。
 
フラン・パルレ:キャバレーでも歌いますか。
マリ=ポール・ベル:歌い始めた頃は、覚えてもらうために必然的にキャバレーでも歌いました。シンガーソングライターがまず有名になる場所はキャバレーでした。だれか新人を発掘しようと思ったら、こうした場所に行くものでした。レクリューズとか、レシェル・ド・ジャコブとか。私はキャバレーをたくさん回りました。それから見出されました。運が良かったのです。それからボビノやオランピアのような劇場でも歌い始めました。そして少しずつ名前が知られてゆきました。
 
フラン・パルレ:あなたが歌うシャンソンは、どのくらい自分で作っているのですか。
マリ=ポール・ベル:私の歌は全部私が作曲します。ときどき歌詞も作ります。自伝的なシャンソンなら、私の感情を出せるのは私だけだと思うので、私が歌詞を書きます。デビュー以来ずっと私のために書いてくれる作者もいます。私のほうでも浮気はしません。この作詞家たちは作家なので、文学的にとても質の高い仕事をします。
ミッシェル・グリゾリアは作家で、フランスの名作映画のシナリオを書いています。フランソワーズ・マレ=ジョリーは、ベストセラー作家で、アカデミー・ゴンクールの選考委員です。彼女は副委員長です。だから、素晴らしく質の高い歌詞に恵まれているわけですが、それはエリート主義の文学ではなく、マージナルでもなく、日常生活で使われ、町に出て行くような言葉で書かれています。
 
フラン・パルレ:あなたのシャンソンは外国語に訳されていますか?
マリ=ポール・ベル:はい。ドイツ語に訳されているのを知っています。『ウォルフガングと私』という歌を書いたことがあるので。これはモーツァルトの妹の物語をユーモラスに歌った作品です。彼女は全ての曲を作曲したのは自分だと言って、著作権を要求します。そしてウォルフガングは侵奪者だといいます。モーツァルト風の音楽に乗せた愉快な歌です。フランソワーズ・マレ=ジョリーとミッシェル・グリゾリアが20年代のベルリンについて書いた美しいイメージに合わせて、私が曲を書きました。当時のデカダンな雰囲気なども合わせて表現しています。それ以外では、英語などですか。ないでしょうね。いろんな国でフランス語のまま歌われているのなら知っています。著作権料を受け取るとき、SACEMの伝票を見ると、フランス語を話さない国々で歌われてるんです。フィンランドとか、カタールとか・・・・私はいつもフランス語で歌います。外国へ行ったときも。英語がとても下手なので。怠け者だからということもありますが、いちいち他の言葉に翻訳していたら面倒でしょう。それに私が歌うシャンソンにはとてもフランス的なエスプリがあるので、他の言葉にそれを移し変えることができるかどうかわからないからです。
 
フラン・パルレ:このバルバラの歌のツァーはどんないきさつで始めたのですか。
マリ=ポール・ベル:フランスでは、2001年3月5日に始めました。だから3年半やっていることになります。こんなにヒットするとは思いませんでした。数ヶ月の予定だったのです。私としては、自分のキャリアのひとつのエピソードのように思っていました。彼女へのオマージュを捧げたかったのです。私が歌い始めたのはブレルとバルバラのおかげですし、彼らのステージを見るのは大きな感動でした。その頃から私は彼らに、特にバルバラに御礼を言いたいと思っていました。バルバラは当時愛を歌う女性のシンガーソングライターとしては最初の人でした。もちろん彼女が生きているうちにやりたかったのですが、そうこうするうちに彼女は逝ってしまいました。私は彼女の熱心なファンがまだ喪に服しているのではないかと思って迷いました。でも結局自分の気持ちに従いました。すると熱狂的な大成功でした。いたるところで大歓迎され、やめるわけにいかなくなりました。バカンス明けにも公演の予約がいくつも入っています。バルバラのファンがその歌に飢えていたかのようです。私が彼女の仕事を伝統として継承する形になったのかも知れません。このショーを始める前すでに私はレパートリーに『ナントに雨が降る』を入れていました。私は彼女に『ナントに雨が降る』を私のレパートリーに入れたら迷惑かと聞きました。すると素晴らしい答が返ってきました。「私へのプレゼントになるわ。」彼女のその答そのものが私へのプレゼントになりました。
 
2004年9月
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:大沢信子
qrcode:http://franc-parler.info/spip.php?article198